トランスフォーメーション MAX/MSPなどを使っていわゆるDTMなどより一歩踏み込んだ音楽的、技術的次元で新しい表現を模索する3回目のサマースクールは「これを機会にMAX/MSPの最初の一歩を踏み出したい」と期待している参加者と「高度な問題でも話し合える世界でも数少ない情報交換の場」と捉えている参加者の両方の期待に答えよう(!)と努力を重ねてきた。乱暴に言えば技術的なエキスパートとビギナー、そして音楽、芸術的な熟練者と未経験者の組み合わせによる4つのグループに特有の期待に、限られた時間内にどうやって応えることができるのかが企画段階で毎年話し合われる重要な話題なのである。そして昨年の「実作品をまな板の上にのせて解剖する」という方針からさらに踏み込んだ挑戦が今年のバルロー氏招聘である。 MAXを生みだしたIRCAMなどに代表される学術的、実験的コンピュータ音楽の分野(とでもいうしかない)では常にと言って良いほど同じ悩みが繰り返され続けてきた。「音楽的に高度、技術的に稚拙」な音楽とそのまったく逆の場合である。音楽も技術(学術的研究)もひとりの人間が一生かかっても満足できないほど奥深い仕事なのだから、それを一人で同時に両方やってしまうなどということはめったにできることではない。しかし、そのことが一番の問題なのではなく、そのふたつをどう結びつけるのか、ということが問題なのだとぼくは思う。今話しているふたつの領域で世界の中からスゴイ人の名前をぼくは何人も挙げることができるが、そのふたつをひとりの人間の中で結びつけることに成功したと思える人はそれよりもはるかに少ない。クラーレンツ・バルローはその数少ないひとりなのである。 日本ではいまだに紹介されることの少ない、インドの英国系家庭に生まれ、ドイツ国籍を持ち、現在オランダ王立芸術院教授であるバルロー氏は 、IRCAMを初めとするヨーロッパの様々なコンピュータ音楽スタジオで作品制作を続けたコンピュータ音楽界のパイオニアである。ドイツで行われた1993年の国際コンピュータ音楽コンフェレンスの主催者でもあった彼の略歴をみても、ばりばりのコンピュータ音楽界の人のように見えるのは確かなのだが、それは彼の一側面にすぎない。 個人的な思い出になってしまうがぼくが、初めて彼の音楽に接したのは80年代ベルリンのFMラジオ放送で聴いた「1月のナイルで」というアンサンブル作品である。ラジオから流れてきた彼の音楽(純粋なアンサンブル作品で電子音響などは含まれていない)はまさに聴いたこともないような不思議な音響に満たされて、いつ終わるともしれない持続と共にぼくの耳を圧倒した。その印象は強烈で、その後彼の名前はいつもぼくの心に残っていた。 こんなことを書いたのは「1月のナイルで」が「コンピュータ音楽」という括弧付きの場ではなくPAのない現代音楽シーンの通常のコンサートで演奏される作品であり、しかしその背景には(もちろんそれは後になって知ったことだが)ヨーロッパ音楽の伝統や美学とコンピュータ・テクノロジーが不可分に融合しているひとつの成功例がそこに見られるからである。そこでのキーワードは、「コンピュータを使ったアルゴリズムによる作曲」ということになるだろう。 例えば「1月のナイルで」の場合は子音を含まないテキストの発音(ドイツ語の「1月のナイルで」というタイトルはそこからとられている)をスペクトル分析し、それをアンサンブルの音響によって再現するという基本的なアイデアによって構成されているのだが、そのように言うとすぐさま、次の問いが突きつけられることを、音楽が好きで自分なりの表現を試みようとする人なら知っているだろう。「で、それがどうしたの?」 コンピュータ音楽の作品解説にはどんなコンピュータを使ったとか、新しい音響合成シンセシスを試みたとか技術的な生い立ちが書かれていることが少なくない。しかし最新の技術を使ったからといって画期的な新しい表現が生まれるとは限らないことをぼくらはよく知っている。人の声をアンサンブルにしゃべらせるということもまた一応、面白い(馬鹿な?)ことを考えたものだ、とは思えてもその変換が芸術的に何をもたらしたのかはそれ自体では何もわからない。実際バルローの作品は実に様々なこの変換(トランスフォーメーション)によって生み出されたものが少なくない。彼が時代に先駆けてこのような試みを行ったとしても、コンピュータが普及した現在、例えばASCII文字をMIDIピッチに変換して音を鳴らすことは誰でもすぐに考えつくことかもしれないし、実際にやってみることも難しいことではないだろう。しかし誰もが簡単にできないことは、それを自らの表現としてまとめること、表現として成立させることである。いったいそんな(馬鹿げた?)ことにどのような意味を見い出すのか、意味を与えるのか、それこそが本当の作家にしかできない特別な何かだと僕は思う。 トランスフォーメーション。ぼくらはこの自然界、人工界を問わず世界の森羅万象を端から測定し、データ化し、コンピュータに取り込んでいく。取り込まれた数値データは、記録され、時にはそのまま、1と0の論理演算ぐらいしかできないような単純な仕掛けを無数に組み合わせたアルゴリズムによって「情報処理」され、また次のインプットとして引き渡されるのだ。この、あらゆる物事がデータ化され遺伝子情報さえもが解明される「今」という時代に、このような状況を逆手にとって、それをひとつの「表現」へと昇華させてきた作家としてのクラーレンツ・バルロー。ぼくらは今だからこそ「トランスフォーメーション」と題された今回のワークショップの中で彼の思考や嗜好をも含めて創作の秘密を探ってみたいと思う。彼のいたずらっぽいユーモア、数式だらけの不思議な音楽理論書、インド音楽の伝統、ヨーロッパの現代音楽語法、多言語言葉遊びとビット列変換、カトリック信仰とパンクの洗礼、大まじめと冗談・・それらすべてがこの作家の中で融合している。 彼の口癖がある: 「音楽には聴かなくてもよいもの、聴いてもよいもの、聴かなくてはならないものがある」。そう、ぼくらは彼を知らないわけにはいかない。 三輪眞弘 |
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