■真冬の熱帯雨林
ちょうど巨大地震の前日、私はジーベックで開催されるはずだったサウンドインスタレーション「soundtronics field」のセッティングに立ち会うことができた。ホワイエに24台のMacintochを配置し音空間が過飽和しないよう一台ずつの振る舞いを調整していく地味な作業が続いた。調整がひと段落したときぼんやり休みながら誰ともなく鳥の鳴き真似を始める。私もそれに続く。会場の音空間はみるみる拡大され熱帯雨林に変質した。近くの鳥たちは互いにコミュニケーションを始め、次第に遠く離れた場所から呼応の鳴き声が聞こえる。気がつけばわれわれは無数の鳥たちに囲まれ、しばしの間真冬の熱帯雨林の抱擁を受けた。翌朝神戸を直撃した災害によってこのインスタレーションは幻となったがその後soundtronics fieldは東京で開催され成功をおさめた。
■聴取の仕掛け
ケージの「無音など存在しない」ということばを引用するまでもなく、われわれは発狂することもなく日々音の流れのなかに住む。音はわれわれの周囲に不定形で未分化で滑らかな地平をつくる。どこから始まりどこへ消え入るのか、そもそも始点と終点を想像することさえ疑わしい。そんな流れの中に小さな撹乱が加えられたとき......そう川の流れに指を差し入れるように......音はわれわれの意識に投げ返される。小さな抵抗、めまいに似た跳躍感、現象学的地平の微妙なほころびをともなって図と地が立ち現れる。
サウンドアートと呼ばれる領域が楽音とノイズの二元論を無化し「音」の復権を「聴取」の態度、仕掛けという側面から唱えるとき、多かれ少なかれ底流にあるのはこのような体験への認識ではないだろうか。しかし音の汎神論は的確な手法としての聴取の仕掛けをどれだけ見い出して来たのだろう。
赤松正行のsoundtronics fieldはまさに聴取の仕掛け、流れに差し入れられた透明な指だ。
■soundtronicsの「自明性」
soundtronicsはマッキントッシュ・コンピュータが持つ録音再生を同時に行えるスペックを「掘り起こした」ソフトウェアである。簡単なマイク以外は特別なハードウェアを一切必要とせず、その機能もいたってシンプルだ。言うなればsoundtronicsはコンピュータをオートマチックに録音・再生を繰り返すマルチトラックレコーダに変える。ただし数多くあるトラックそれぞれは相互に独立しており、あるトラックの再生中に別のトラックが録音を始めることもできる。コンピュータの中に何台ものテープレコーダがあってそれぞれ勝手なタイミングで録音したり再生したりするイメージだ。したがってコンピュータ1台であっても周囲の音とともに本体のスピーカーから出された音もあわせて取り込むことになる。
コンピュータは自分の発する音と周囲の音のバランスを保つように各トラックに最小限のコントロールを施すのだが、それはsoundtronicsに本質的な要素ではない。特筆されるべきは開放的であると同時に自己再帰的なシステムであるということ、その結果極めて複雑で多層的な関係性のテクスチュアを生み出すということだ。単純な機能と必要最小限の外観に徹し、仕組みをむき出しにしたsoundtronicsの「自明性」は、そうであるが故に聴取の仕掛けとしての力量をダイレクトに提示する。
サウンドインスタレーションという形態において、赤松はsoundtronicsをインストールした数多くのマッキントッシュを会場の空間に注意深く配置する。こうして来場者の声や物音、各コンピュータの再生音、会場のアンビエンスを取り込みつつ極めて複雑かつ動的な音響空間が実現されるのである。
■オブジェから関係性のデザインへ
コンピュータテクノロジーを用いたメディアアートにおいて、インタラクティブ性が取り立てて珍しくはなくなった現在、私の声、動作、位置がキューになって何らかの出来事を引き起こすというだけではもはや何ら新規性を感じられなくなっている。結局アートの語法としてのインタラクディブな仕掛けはアーティストの鋭敏なセンスによって作られるサウンドや画像、テクストなどのリソースに何重にも護衛されることになり、<参加者>の行為と<作者>が用意する出来事の間に取り結ばれる関係性は次第に恣意的かつ不明瞭なものとなる。もちろん手法の新規性がアートの目的ではなくトータルな表現としてそれは判断されねばならない、という主張はうなずけるし常に有効だ。ただ何故にコンピュータが用いられなければならないのか、その必然性への問いを失ったときメディアアートは実体視されたデジタルオブジェの亡霊に憑依されはしないか。オブジェの背後に語られえない物語を見るというモダニズムの図式にまたもや回収されやしまいか。
コンピュータを手にすることでわれわれが初めて手にした方法論とは「関係性のデザイン」だと私は考える。目に見え、手に触れ、耳に届くオブジェそのものではなく、主体とオブジェの間に手続きを置くことで相互に「関係づける」こと、言い換えれば主体の参与がオブジェを生成させていく手続きを描くことで関係性を現前させること、それを徹底した論理的記述により期待する方法論だ。わざわざ期待すると言ったのは関係性それ自体は決して事前に決定されるものではなく、常に実現される現場を必要とし、現実の時間・空間の座標軸に張り付いているからである。実時間のなかで実際に結ばれる関係性は極めて複雑で動的であり予測不可能性を多分に含んでいるだろう。そしてアーティストは意図したものと意図しなかったもののダイナミズムに作品の生命を委ね、そこから創発するであろう体験に作品の審美性を賭けるのである。
■「場の出現」と創発性
soundtronics fieldにおいて来場者は「場の出現」という事態に遭遇する。
「場の出現」の体験は「場」の体験とはまったく違う。それは「創発性(emergence)」という概念によって語ることが最もふさわしいものだ。
例えば「奥行き」を考えてみよう。網膜に結ぶ映像をいくら子細に検討・分析しようともそこから奥行きを引き出すことはできない。それは確かに両眼の視覚を要素として出発はするが、相互の差異から立ち上がり、再び要素へと還元されることのない全体的なひとつの体験なのだ。B.ラッセルとG.ベイトソンに倣えば両眼視覚と奥行きは異なった論理次元に属し、奥行きは両眼視覚の「関係性」から「創発する」のである。このあまりにも自明な体験の中に神秘ともいえる次元の跳躍がある。
soundtronics fieldにおける場の出現は所与としての自明な場から新規な別の場へと次元をひとつ跳躍する体験、言い換えれば現前するの関係性のテクスチュアから、全体性を持ったひとつの知覚が創発するプロセスを一部始終経験することである。しかもsoundtronics fieldにおいては(ここが重要なのだが)場の出現に立ち会う「私」が同時に場の創造者でもあるのだ。
私の声、口笛、靴音、拍手、うわさ話、等々が会場の音空間を作り出す。何度も言うようにsoundtronics fieldにおいてはすべてが自明なのだ。来場者はパネルやパンフの言語的な補助を借りることなく、そこで何が行われているのかたちどころに了解する。言語の意味作用とオブジェのメタファー性を一切排除した潔さは、逆に関係性のデザインという作品の方法論を浮き立たせる。「なるほど勝手に録音するんだ...」という来場者の独白が次の瞬間にはリフレインされ伝播され、私と音の必然的な関係性を現前させる。私は時間的にも空間的にも拡がっていく。そしてこうした複雑かつ動的な関係性のテクスチャから、場の出現が体験されるのだ。ちょうど私が抱擁を受けたあの真冬の熱帯雨林のように。
佐近田展康(ノイマンピアノ)